ワーカホリックの日記『これはシャワーを浴びるようなものだ』

フィレトソの普通日記だったけど哲学日記に変わります

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出発点

われわれが考察しているのは、考えるための方法であり何かを知るための方法である。例えば世界はいかにして成立しているかという問いがあるとしよう。その場合われわれはまず世界という語をどのように使用していて、また「どのように」「存立する」といった事象をどのように認識した上で話をしているかを語らねばならない。そのようにして人の興味は問いや観察といった人間の思考の前にあることに移っていく。われわれは問いを立てると同時にその問いがどのような意味で可能であったかを考察する、すなわち語る方法を吟味するわけである。同様にして人は、方法論を考察すること自体を考察せねばならないだろう。このとき人が示しうることは「私は繰りかえし同じことを考えている」ということである。方法論の考察の無限退行によって形式が示される。これは語ることによって示されるのではなく、語るという行為そのものが人に眺められることによって何かを示すように思われるということである。
われわれは何かを語り思考するという行為を見て取るのであるが、その見て取ること自体は語る場には存在していないのである。われわれが物事すべてに共通するものを抽出しようとすれば、それは「その文はわれわれによって語られている」とか「それは私によって眺められている」といった類のものであろう。それゆえ人が一般的に語ることが出来るのは「それをどのようにして語り眺めるか」といった考察である。
われわれの考察において、その考察が私によって考察されているということはすなわち「私は何かについて語っている」ことを示している。方法論の考察に当たって重要なことはそれが私に思考されたことであり何らかの性質を持っている、ということである。しかしそれ以上に明白なことは私がそれを思考した「であろう」ことであり、私が思考するということは暗黙の了解とされているのだ。

思考がまるで意思を持っているかのように感じることがある。文章は動き想像の中で何かを作用させる。ただのインクの染みが、独特の発想を刺激する場合もある。

私の考察せねばならないことはどのような場合に思考が刺激され動くかの例を挙げていくことではない。限りなく一般的で常にそこからはじめられるような考えに行き着きたいのであるが、そのために用意する思想の数々がどれも一般的ではないので困惑しているのだ。

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