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<title>ワーカホリックの日記『これはシャワーを浴びるようなものだ』</title>
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<description>フィレトソの普通日記だったけど哲学日記に変わります</description>
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<title>出発点</title>
<description> われわれが考察しているのは、考えるための方法であり何かを知るための方法である。例えば世界はいかにして成立しているかという問いがあるとしよう。その場合われわれはまず世界という語をどのように使用していて、また「どのように」「存立する」といった事象をどのように認識した上で話をしているかを語らねばならない。そのようにして人の興味は問いや観察といった人間の思考の前にあることに移っていく。われわれは問いを立て
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<![CDATA[ われわれが考察しているのは、考えるための方法であり何かを知るための方法である。例えば世界はいかにして成立しているかという問いがあるとしよう。その場合われわれはまず世界という語をどのように使用していて、また「どのように」「存立する」といった事象をどのように認識した上で話をしているかを語らねばならない。そのようにして人の興味は問いや観察といった人間の思考の前にあることに移っていく。われわれは問いを立てると同時にその問いがどのような意味で可能であったかを考察する、すなわち語る方法を吟味するわけである。同様にして人は、方法論を考察すること自体を考察せねばならないだろう。このとき人が示しうることは「私は繰りかえし同じことを考えている」ということである。方法論の考察の無限退行によって形式が示される。これは語ることによって示されるのではなく、語るという行為そのものが人に眺められることによって何かを示すように思われるということである。<br />われわれは何かを語り思考するという行為を見て取るのであるが、その見て取ること自体は語る場には存在していないのである。われわれが物事すべてに共通するものを抽出しようとすれば、それは「その文はわれわれによって語られている」とか「それは私によって眺められている」といった類のものであろう。それゆえ人が一般的に語ることが出来るのは「それをどのようにして語り眺めるか」といった考察である。<br />われわれの考察において、その考察が私によって考察されているということはすなわち「私は何かについて語っている」ことを示している。方法論の考察に当たって重要なことはそれが私に思考されたことであり何らかの性質を持っている、ということである。しかしそれ以上に明白なことは私がそれを思考した「であろう」ことであり、私が思考するということは暗黙の了解とされているのだ。<br /><br />思考がまるで意思を持っているかのように感じることがある。文章は動き想像の中で何かを作用させる。ただのインクの染みが、独特の発想を刺激する場合もある。<br /><br />私の考察せねばならないことはどのような場合に思考が刺激され動くかの例を挙げていくことではない。限りなく一般的で常にそこからはじめられるような考えに行き着きたいのであるが、そのために用意する思想の数々がどれも一般的ではないので困惑しているのだ。 ]]>
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<dc:subject>ほとんど哲学的な</dc:subject>
<dc:date>2011-10-21T03:25:00+09:00</dc:date>
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<description> ちょっとした話し方、声の調子でその人の印象は全く変わってしまう。否定的言動も透けた高い声で当たられるならば冗談のように聞こえ喉っぽい極端な地声で語られたならば陰湿に聞こえるだろう。しかしそのとき最も気をつけねばならないのは、そのとき自分自身に対する印象が変わってしまうのである。人に作品を見せるということは自分もその作品と同じものをずっと眺めているということである。深遠を見せようとするものは自分自身
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<![CDATA[ ちょっとした話し方、声の調子でその人の印象は全く変わってしまう。否定的言動も透けた高い声で当たられるならば冗談のように聞こえ喉っぽい極端な地声で語られたならば陰湿に聞こえるだろう。しかしそのとき最も気をつけねばならないのは、そのとき自分自身に対する印象が変わってしまうのである。人に作品を見せるということは自分もその作品と同じものをずっと眺めているということである。深遠を見せようとするものは自分自身が深遠を見ていることを忘れてはならない。<br />この見解は人間の原動力が美的感覚にあるという意見とまったく反対にある。 ]]>
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<dc:subject>ほとんど哲学的な</dc:subject>
<dc:date>2011-09-27T04:28:17+09:00</dc:date>
<dc:creator>ワーカホリック</dc:creator>
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<description> われわれの哲学が説明の方法に集約される。対話において人が用いるのは現実論である。人間の行為には一種の反射のようなものがある。人と話をしていて急に起こるようなわれわれの行動は会話でも説明でもない。そしてその反射をどうにかしようと思っているので無い限りはその反射はわれわれの考察には入ってこない。対話は自らが行動する部分と相手に行動させる部分がある。前者は説明と芸術論的演劇であり後者は個別的な技巧である
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<![CDATA[ われわれの哲学が説明の方法に集約される。<br />対話において人が用いるのは現実論である。人間の行為には一種の反射のようなものがある。人と話をしていて急に起こるようなわれわれの行動は会話でも説明でもない。そしてその反射をどうにかしようと思っているので無い限りはその反射はわれわれの考察には入ってこない。<br />対話は自らが行動する部分と相手に行動させる部分がある。前者は説明と芸術論的演劇であり後者は個別的な技巧である。 ]]>
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<dc:subject>ほとんど哲学的な</dc:subject>
<dc:date>2011-09-26T04:12:47+09:00</dc:date>
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<description> 芸術を感情を伝えるものであると主張している人と話をする。彼の話は政治を中心に行われていたが、主とする思想は人間の活動の根源は美学に由来するというものであった。それゆえいかなる政治的活動や実力行使も美学に基づき、美学の洗練された形である芸術はそれらのもの以上の可能性がある、というわけだ。しかし実力行使が一種の美学に基づくならば実力の行使はまさに美学の表現なのであり、それ一つの芸術作品となりえるのでは
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<![CDATA[ 芸術を感情を伝えるものであると主張している人と話をする。彼の話は政治を中心に行われていたが、主とする思想は人間の活動の根源は美学に由来するというものであった。それゆえいかなる政治的活動や実力行使も美学に基づき、美学の洗練された形である芸術はそれらのもの以上の可能性がある、というわけだ。<br />しかし実力行使が一種の美学に基づくならば実力の行使はまさに美学の表現なのであり、それ一つの芸術作品となりえるのではないか。実際に物語では実力の行使を表現することで一つの場面を見せることができる。これは実力行使がそれ自体で人に感情を与える、ということに他ならない。<br />もしも芸術が美学の一端であるならば他のどのような人間の意図的な活動も美学を根拠とする。そして芸術はその他の活動と同じくゲームの一つなのであり、伝達の度合いがある。それゆえこの伝達は他の実力行使と同じ立場にあるのであり、芸術が他のものよりも上にあったり下にあったりするのではなく同等に闘争をしているのである。<br />芸術家が政治に反発して一つの作品を作り上げることは、芸術家が政治的扇動をしているのではなくて芸術家がまさに他の活動を押しのけて芸術を広めようとしているのだ。そしてこの芸術家の活動には、彼の考えるところでは美学に由来しているのである。<br /><br />しかし人間の活動の根源を美学に見るというのはまっとうな味方ではないか。というのも私は外的な運動を見て思考のゲーム理論を組み立てたが、その活動因子を見てみると中身では価値判断が行われているのである。美的感覚は思考ゲームの中で存在確立を得るのだが、しかし美的感覚によってゲームが始まるのである。<br /><br />私が考えているのはこういうことだ。<br />人間が知ることの出来るのは外的な運動の全容ではなくて美的感覚のほうである。すなわち意図的な活動においてはいかなる現実論も美学らしきものに由来するがゆえに、思考ゲーム論と芸術論を統合するべきではないか。<br />しかし私は現実論に哲学的根拠が存在しないと考えてもそれだからといって美学がそこに必ずしも存在しなければならないとは考えない。十分に可能性を論じる暇がなかったり、それ以外のことが考えられなかったりして現実論はしようされているの場合もあるのである。<br />現実論を美学によって正当付けている人は、可能性を広く見たあとでアプリオリな根拠を見つけることが出来ないのでそのような根拠をつけているのだ。反対にそのようなことをしない人たちにとって現実論はそのままで美的感覚と呼べるのではないだろうか。他人が考えていることを知ることが出来るかできないか、運動の方法がただ一つに定まるか定まらないか、精神は自由か拘束されているか、といったことに対する考え方はそれ自体保有されることによって君にある感じを与えるのではないだろうか。少なくとも認識の感じを与えるのである。<br /><br />現実論を倫理と言い換えるならば、Ｗが倫理と美学は一つであると言った事にも理由があるように思えてくる。しかし演繹が科学にどの程度使えるかや木を切る音が人のいない場所でも存在するかどうかについての判断を倫理と考えるのは非常に困難である。これらのことは思考の中でももっとも意図的な部分にあり、人間関係における気分のような習慣的なものとは明確に区別されるべきである。<br /><br />私は思考のゲーム論によって芸術家と政治家を戦わせて見せた。そこで美学という道具を持たせてみたのだが、ただそれだけのことでゲーム論に美学が含まれたわけではない。私は思考のゲーム論を様々な思考が並立する状況を考えるためのものとして用いる。すなわち芸術家のみが特殊な価値判断を行っているわけではなく政治家や格闘家も同じであり、闘争を行うのであれば同じ土俵に立つのでなければならない。芸術家のみがこの世の中に存在するべきというわけではなくて他のタイプの人間も同じように存在しうるということを示したかったのである。思考ゲーム論は非常に大雑把であり単にそれぞれのものがありうるということしか教えてくれない。だからこの理論と美学論を一緒に居させようとする必要はなく、それぞれについて論じることで現実についての判断材料を増やせばよいだけなのである。<br /><br />芸術が感情を伝える、という考え方には見所がある。しかしそれでは一体何の感情を伝えるのだろうか？芸術の作品は作者の感情を伝えるのではない。もしも芸術がそのまま作者の作品を伝えるのだとしたら、作者が作品を作るときの苦悩を伝えるだけのものになってしまうだろう。（実際に自分が作り手になると苦労が透けて見えてしまうことがあるが）<br />芸術の作品はそれ自体が感情を表現する、と言えるのではないだろうか。作者は芸術作品を作りながら「この作品は良いぞ」とか「これではまずいな」とか考えながら作品の出来を見るのである。そして自分でも今まで感じたことの無いような感覚を引き起こすようなものがその手から生まれることが実際にありうるのである。芸術は心理学に似ている。ただし芸術の実地的理論の検証に非常に高度な技巧が必要なので決してその方法は体系化されることが無いのだろう。<br /><br />人間の活動のあらゆるものが美的感覚に依存している、とは言えないだろう。このような考え方はどのようなものにも原因を見ないと気がすまない人のするものである。中には意図的に自分の美意識を元にして現実論を選ぶこともあるし、またある人の何気ない選択の中に法則性が見て取れることもある。しかし人間の活動の多くは相互作用的な原因を与えることは出来ても一方的にある思考に依存しているというわけではないだろう。<br />それでも人は美的感覚を重要視しなければならない理由がある。一つは述べている通り自分が持つ現実論に正当性を持たせるためである。そのためには現実論より前に一つの理論を持っていなければならない。それは美学の基礎と呼べるだろう。<br />もう一つは対話のためである。それは相手の美的感覚を知り刺激することで適した結果を出すためであるし、また自分の美的感覚を相手に伝えるためである。<br /><br />われわれの対話には二つの方法があるのではないか。一つは認識を伝えることであり、もう一つは感情を伝えることである。どちらも伝達であるがそこで行われる対話は大きく異なっている。認識を伝え合うためには主に受け取り手側が何を言われているのかを理解する努力をせねばならない。一方で感情を伝えるためには、感情の表現する人が一つの作品となるのであり自分自身がある感情を発信することが出来るように努力せねばならないのである。<br />このことは対話における自己開発の上手い方法なのではないか。自分を一つの表現媒体として見なし作り上げることで、相手に見る楽しみを与えるのである。これは人間関係における自己開示に対応する。<br /><br />人間関係的対話は感情を表現する。しかし話者の感情をそのまま流すのではなく、自分の目的とする感情を与えられるように活動するのである。そのために用いられる言語や身振りはその一つ一つの意味では重要ではなく、その一つ一つが全体の中でどのような役割を示すかが問題となるのである。<br />しかしながら話者の自身の感じている美的感覚というのは対話全体に影響を与えるのではないだろうか。表情や声の調子によって全体に薄く色が塗られる。それはその対話におけるベースカラーなのである。相手を楽しませるために自分が楽しんでいなければならないことはない。むしろ自分が一人で楽しんでいるだけで相手に楽しい印象を与えることは難しいだろうう。<br />まずは限りなく一般的な話になるが、余裕を持って何でも言えるような話者の感情はどのような作品にも合うベースカラーなのではないか。この感情は色で例えるなら空気の透明やキャンパスの白であり彫刻の素材全体である。特定の感情は独特の癖のある作品を作り出す。水色のキャンパスや形の制限された彫刻の素材のように。この感情はどのような文法でも許容する。いな、そのような許容の現実論を保有しておくべきなのではないか。この余裕の感じは、結果として特定の作品を作り出すだけではなくまだ描かれていない余白を相手に想像させるのではないか。そういった意味では白もある意味で色であり、透明もある意味で視界なのである。<br /><br />この私の考察で出発点としたことは、人間は美的感覚に由来する、というものである。これは非常にまずい理論であるがたくさんの得るところがありオリジナリティに溢れている。 ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
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<title>説明論・現実論</title>
<description> 私は説明を何も付着していない空のものとして取り出した。何か属性が付随しているならば説明の説明なるものはすぐに問題を起こして変更を要請してしまうだろう。私が取り出したのは説明の本質的な運動である。ここで言う本質的とはどの説明にも共通である、ということである。思考のゲーム論が教えてくれることはたんに思考のそれぞれが存在しうることであり、理論的に不可解な思考はおおよそ考えられぬ、ということであった。（ト
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<![CDATA[ 私は説明を何も付着していない空のものとして取り出した。何か属性が付随しているならば説明の説明なるものはすぐに問題を起こして変更を要請してしまうだろう。<br />私が取り出したのは説明の本質的な運動である。ここで言う本質的とはどの説明にも共通である、ということである。<br /><br />思考のゲーム論が教えてくれることはたんに思考のそれぞれが存在しうることであり、理論的に不可解な思考はおおよそ考えられぬ、ということであった。（トートロジー）<br />ある思考が存続するか、不利な立場にあるかは詳細な現実論の援用によって明らかになる。あるいはどのような思考を利用するかについても、別の理論による。<br /><br />思考ゲーム論が語ることはどのような思考もシステムの中で存在してる、ということに他ならない。それゆえシステムの中にあるということがわれわれの知りうる唯一の思考に関する知識なのであり、それ以上の、どのような活動が起こりどのような活動が起こらないかについては理論によって知られるのみである。というのも思考の有利不利に関しては運用される場所の性質を詳細に知らなければ不明だからである。原理的に思考の適応度が完全に決定されているか、ある地点では少なくとも一意に定まるのかどうかについても、定かではない。それは現実に関する人の理論が語ることであって、思考のゲーム論は思考について語る方法を教えてくれるに過ぎない。<br />思考のゲーム論は思考の存在する諸可能性を満たす。思考のゲーム論は思考なるものを考察する際に何を考慮すればよいかを教えてくれる。しかし諸可能性のうちどれがありそうでどれが非現実的かについては一切教えてくれないのだ。<br /><br />どのような思考も相互関与の中にある。それゆえ思考はシステムの中にあると表現される。<br /><br />現実論そのものに関して一つ語ることがあるとすれば、人が知りうることは現実において限られているために特殊なゲームが行われるということである。<br />ある人がヘリウムが空気よりも軽いという。その主張は知識の体系の中で役割を持つ。ある学会ではその主張と相反する理論が語られ論争が起きる。しかしまずヘリウムが何であり、どのようにして得るか、どこに存在するか、本当にそのような性質を持つかどうかをわれわれはほとんどの場合知らない。この知識に反対しようものならば反抗的だと見なされるであろう。しかし例えばある事件の裁判で容疑者が本当に凶器に刃物を用いたのかどうかにちては誰も知らず、またある会社の新製品が優秀な性質を持っているかどうかも直接的に知ることは困難である。それゆえ人が良く耳にするような信念に関する演劇論が語られるのである。<br />そして誰かが「物自体は実在する」と主張するときに、われわれはその結論にいたる思考の道筋を知らないのである。ここで人間の認識の一貫性とか思考の有用性についていくつかの講釈を聞かされたとして何故それだけが語られてほかのことが吟味されないのか、われわれには全く不明なのだ。また、自分自身の何かに関する理論も何故それが結論で変わることが無いのかを、人は全然知らない！<br />もちろん人は言う。「でも、それが正しいか、正しくないかは分からないのだが、正しくないと決まったわけでもないのだから謙った言い方に走ればよいというわけではない」<br />人が謙遜的な言い回しをするのは、研究的態度を示すためであり、また自分が間違わないようにするためである。もし人が研究するならばどのような確実なことも不確定に扱い新しい可能性を探るだろう。そしてたくさんの可能性について語ったところで、語られうることの一般的な性質が知られるのである。われわれは他人が語ることも自分が語る現実についての説明も、どうしてそれが正当に主張されることが出来るのかを理解することが出来ない。そしてこの「理解することが出来ない」は人がゲームをするときのコマなのではなくて哲学をするときの結論に過ぎず、思考がどのように進んでいくかを眺めた結果なのである。<br /><br />われわれは現実論一般の性質をいろいろな説明を通して得ようとする。その結果はわれわれが自分たちの生活について詳細な説明をしようとして得られたものであって、人と話すために用意したものではない。<br /><br />人が「誰の言っていることも真偽の決定的な判断を向けることは出来ない」と認識しているとしても、それを語ることは無意義である。だがしかし、やはり人々は実際のところそのように意識しているので他の人の考え方をきちんと吟味して信用できるかどうかと値踏みする。<br />もちろん違った人たちも考えられる。ある人は他人の言うことを全て嘘だと思い自分の言うことだけを信じようとさせ、また別の人は人を信用しすぎて騙されているのにまだ疑わないということだってある。このような現実論の持ち方の多様性は思考ゲーム論によって説明されるであろう。<br />人は様々な現実論の原始的形態を持っている。人のゲームにおける思考のスタンスはその人の持つ現実論によっている。現実論とは世界がいかにあるかの若干哲学的産物であり、説明論の一部である。というのも現実論は世界についてどのように説明すればよいかの理論だからである。<br />若干懐疑的な現実論を論じる人たちは、自分の意見を力説するような他人のことを「信じがたい」と思うに違いない。しかし自分自身しっかりとした意見を持っているので論争になれば自分の意見を力説することができるだろう。だがしかし現実論一般を眺めてみることによってこのような「信じがたさ」は消滅してしまうし、また自分も同じ穴の狢であるというような類の自己矛盾も解決してしまう。<br /><br />私が解消したいのは様々の人の間に見られる見解の大きな差異が何故あるのかであり、また自分自身がいかに論じるべきかという問題である。<br />様々の人の思考がそもそも存在するということは思考ゲーム論によって説明された。また思考の違いが根本的には彼らの現実に対する説明方法にあるとも説明された。それ以上の現実論の差異に関しては学問の諸分野における技術的な話法について語らねばならないであろう。ただし、仮説だとか、帰納だとかいう現実論の体系的知識については語ることがあるかもしれない。しかしそのような残骸のような思考法でなくて、他人をどう見るか、人の意見と自分自身の関係をどう解釈するかがわれわれにとって重要なのである。<br /><br />人が現実についてどう説明するかは、実のところ根本的な部分で決まってしまっているのでどのような現実論を持つべきかについて語ることなどほとんど無いのかもしれない。常にわれわれの身の回りにあるから見落としがちだし習慣付いてしまっているのだ。<br />現実に関する理論に哲学的根拠など存在しない。現実論を哲学によって分析することが出来るだけである。現実論を哲学の世界に引きずり出したというだけでも大きな収穫なのだ。<br /><br />ある人は実際に運用するものとしての現実論について論じるであろう。どのような理論も自分の生活を元に作られるので、自分にとって不利なもの、不要なものは徹底的に排除するのである。その結果その思考は理想的な内的システムに囲まれることになるのだが、そのために思考が制限されてその中でしか新しい考察が出来ないという事態は考えられる。しかし哲学をしないのであれば普通はこの方法がすばやく思考が出来自分にとって有利であり思考を単位としてみると存続しやすいため推奨される。<br />哲学をする場合に限り現実論をまずその現実論を構成する要素から分析し、哲学的根拠が無いゆえに様々の可能性が考えられることが示されるのだ。そしてここに哲学と現実論のハッキリとした境を見つけることが出来るであろう。哲学は現実とは一切のかかわりを持たないものであり、それゆえに現実論の構成要素として任意に用いられることが出来るのだ。<br />われわれが混乱していたのは、現実論と哲学が見かけ上は同じだったからである。どちらも説明であり、現実についてだけ語っていたような説明を純粋な形態に洗練するには時間がかかった。そしてそれが洗練された状態であることを知るためには更に時間がかかった。これからは、説明することを取り出すことができたので更に説明に関する哲学的考察をしなければならない。そのことは、われわれが考察可能であることを語りつくすために役立つ。<br /><br />私もまた自分に都合の良いような現実論を持とうとしているのだが、そのために使える思考の部品があまりにも不足しているので哲学によってありとあらゆる可能性を論じなければならない。<br /><br />物事に対する説明を洗練しようとするのがわれわれの行っている活動である。この活動を取り下げることは出来ず、少なくともこの活動を行っていることによる限界を人は認識するのである。<br />哲学によって語られる思考の限界とは、われわれがまさに哲学をしようとしているがために生じる限界のことである。<br />この説明は物事を説明すること自身についても洗練された説明でなければならず、人が示さんとすることはつまるところ「この説明も説明されるのだ」ということでしかない。しかしそれは語られるのではなくて、説明論を理解している人に認識されて特別な感じを得させるだけである。説明には認識が運用されている。「説明に認識が用いられている」という説明にも認識が用いられているのだが、そのことを説明論者はそこにいかなる問題も無いという暗黙の了解の元に眺めるのである。このような説明論における説明は人々が了解しているようなことでなければならない。例えば「人は一切何も認識していない」ということをわれわれは了解していないだろう。もしもこの文章が了解されるのだとすれば、日本語の不案内な人が否定節を見落としている場合などである。それゆえこの文章は構文によって意味を持つのではなくて、この文章が語られた瞬間に聞く人が「ああここでは想像するんだな」と思い自分が説明をしている状態を思い浮かべて言わんとすることを示すのである。<br /><br />説明の形態には様々のものがある。ものの数に関するもの、あるあらぬに関するもの、ものの色形などに関するもの、感覚について語るもの、直線上の位置に関するもの、運動に関わるもの、空間における位置に関するもの、方向に関するもの・・・等等。しかしどのような形態においてもそれが説明することを目指していることは変わらず、哲学的説明においても同じである。そして自分たちが常にそのような説明する状態にあって他の状態にいながら考察することが不可能であることがアプリオリな事実なのである。しかしもちろん、説明しない状態を説明できないわけではない。そうではなくて、説明の一般的性質が説明するときに常に付きまといそれを振り払うことができないというのが人間の限界だというのである。<br />われわれは思考して何かを説明するのではないときに言葉を口から出すことがある。しかしそれはわれわれの説明ではないのだ。<br /><br />ここに書かれたことは、まさに私が今行っている活動の一般的性質を述べたものである。確かに今この書き物がこれらの性質を持っているように私には思われる。<br /><br />ところで考察において重要なことがある。それは新しい認識の追加である。もしも私が説明の一般的形態を認識していなかったらこのような文章は生まれなかった。もしかしたら今後新しい認識によって哲学が全く変わってしまうかもしれない。その場合でも常に利用できるような哲学が私に必要なのか、あるいは別の場合のことはまったく考慮しないのが説明論なのだろうか。<br />反対に私が過去認識したことを忘れてしまってもう一度別の哲学を作り出す場合も考えられるのだが、このことはわれわれにとって重要なことでは無いだろう。 ]]>
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<dc:creator>ワーカホリック</dc:creator>
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<title>最近のこと</title>
<description> 最近は何かと大変です。自分の住んでいるところは鹿児島で、地震とかの影響などではなくて個人的な問題です。一つは犬が寝たきりになりました。ここ一ヶ月前から立てなくなってしまい、マットに寝かせてしばしば引っくり返し食べ物飲み物を口の近くに持っていって飲ませてあげる毎日です。数ヶ月前から足がだいぶ弱っていて、特に後ろ足がよちよちとしか動かなくなっていました。以前に一度滑って足を捻挫したのか、後ろ足の片方を
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<![CDATA[ 最近は何かと大変です。自分の住んでいるところは鹿児島で、地震とかの影響などではなくて個人的な問題です。<br /><br />一つは犬が寝たきりになりました。<br />ここ一ヶ月前から立てなくなってしまい、マットに寝かせてしばしば引っくり返し食べ物飲み物を口の近くに持っていって飲ませてあげる毎日です。<br />数ヶ月前から足がだいぶ弱っていて、特に後ろ足がよちよちとしか動かなくなっていました。以前に一度滑って足を捻挫したのか、後ろ足の片方を引きずっていたことがあったのですが、それとも若干関係があるように思います。足を捻挫したときはすぐに直ってぐいぐい引っ張るくらいに回復したのですが、だんだんに引っ張る力が弱くなって今まで「引っ張るからとても散歩などいけない」と言っていた母が余裕で散歩に行けるほどでした。<br />今が9月で、寝たきりになったのが8月の半ば。7月かそれより前にはすでに散歩に行くのを嫌がって、起き上がるのも大変そうでした。散歩に行くときはいつも非常にゆっくりで、道半ばでほとんど止まるようになり、ようやくのことで家に着く感じ。それでも犬は外に出たいのだろうと思い毎日行っていたのですが、「本当は歩きたくないんじゃないか」と散歩を休憩してみると、犬はもう、今までのように散歩を要求したり、「散歩に行って無いぞ」と異議を申し立てたりはしませんでした。<br />しばらく散歩を休憩していました。水のみ場の近くで寝ていることが多かったのですが、その理由が分かった日はちょっと笑ってしまいました。立って水を飲みに向かうのですが、飲み終えて振り返ろうとすると腰に上手く力が入らないのかちゃんと振り向けず、足が折れてしまってくるりと体を丸めた形で座り込んでしまうのです。もう立ち上がるのも面倒なのでそのまま寝てしまうようです。<br />大好きだったビーフジャーキーは、いつも散歩の後にあげていたのですが、散歩に行かないようになると夕方散歩に行っていたはずの時間に食べさせるようになりました。「お、ご馳走だ」と立ち上がるのですがかつてのようにすんなりは立てません。後ろ足を重たそうにしながら前足で頑張って立ち、それに付いて行くように後ろ足が上がります。<br /><br />犬というのは、一度老衰しても復活することがあるようで、死ぬと思っていたけれどもそこからまた元気に散歩に行くようになったという話を聞くことがあります。<br /><br />来る8月、犬の後ろ足がちょっと回復したようで数ヶ月見ていなかったマドのガサガサを一度だけ見ました。歩き方も若干まともになってきて、これは散歩に行けるに違いないと思い急いでロープを用意しました。<br />犬は玄関まで走って行き、階段を勢い良く下りたのはよかったのですが、その後はさんざんでした。家から出て10メートルも歩かないうちに歩きを止め、もう歩けなくなりました。半年前までは犬が私を早く早くと引っ張っていたけれども、今度は私が「歩けないかい」と優しく引きます。一歩一歩よたよたと歩くのですが、もう限界だと言っているように見えて、もう私も悲しくなってしまって、スコップと袋を道端に置いたまま犬を抱きかかえて家に帰りました。玄関の前に着いたら犬はもう立つことが出来ず、足を洗うことが出来ません。いつも生活しているベランダに運びますが、もう二度と、このときから犬が立ち上がることはありません。<br /><br />それからは立ち上がることが出来ないので食べ物や水を口元に持っていきます。最初は犬も地べたに寝かせて、食べさせるのにもかなり苦労していました。どうせすぐに立ち上がれるようになると思っていたので、その場しのぎの仕事でした。<br />3日も寝たきりが続くともう駄目だという気分になり、毛布を敷いてベランダに寝かせます。母親と変わりばんこにものを食べさせます。それからまもなく、犬に床ずれが出来ていることとが発覚します。<br />後から分かったのですが、犬には横たわるのに好きな方向というのがあり、嫌な方向だと方向感覚まで狂って目を回してしまうようです。自分で寝返りをうてないのでたまに引っくり返してあげるのですが、嫌な方向だとすぐに「うーうー」とうなります。「くーん」だとか、あの犬らしい声ではなく空気が漏れるような苦しそうな声です。ずっと同じ方向を向けているので肩や足の付け根の骨が出っ張っている部分が地面と擦れて皮膚と肉が削げ落ち骨が見えてしまうのが床ずれです。引っくり返したときにまず右肩が酷く化膿しているのが発覚し母親は大変にショックを受けて数日寝込みました。今は後ろ足の両方の付け根が床ずれになっています。<br />母親が寝込んだときは洗濯や犬の世話は全て私がやりました。もう限界だという気分がしました。ここは自分が動かないとと思い、床ずれの薬を貰える獣医さんを探しました。車が無いので犬を連れて行くのは困難であり、すぐに薬が貰えるところを探したところ家の近くのとても小さな動物病院が事情を理解してくれて薬のセットをくれました。それは消毒の液体と、組織の新生を促す塗り薬と化膿止めの薬でした。毛はばい菌の温床なので傷の周りは刈れと教えられ、言われたとおりにしました。傷の手当てを始めるとみるみる化膿はよくなり、傷の全貌が明らかになります。だいたい5センチ四方くらいの肉が削げ落ちているようでした。白い骨のようなものも見えていました。どのように直って行ったかは覚えていないのですが、今ではぷにぷにとした薄ピンクの筋繊維が出来ていて骨は見えなくなり、ちょっとだけ皮膚組織の筋が覆いかぶさっているように見えます。薬を貰ってよかったことは、母親が立ち直ってくれたことです。今ではちゃんと晩御飯も作ってくれますし、おしっこをしたときのシートも変えてくれます。<br />傷の手当てを始めて獣医さんに行ったときあたりから、犬は家の中に入れています。布団の下に敷くマットレスを改造して、二つ折りに出来るやわらかい敷物を作りました。これは大変に便利で、普段は一面に犬を寝かせるのですが引っくり返すときもう一面を犬にかぶせて挟み、よいしょとマットレスごと引っくり返します。そうすると誰でも簡単に犬を引っくり返すことが出来ます。<br />うちではこれにペットシーズを敷いておしっこやよだれを吸い込むようにしています。<br /><br />今の状況を書きますと、犬はもう立とうという気持ちが起こらないくらい弱っています。しかし食には図太くて家の中でパンの匂いがすると首を持ち上げてこちらを見ます。焼いたパンの耳が昔から大好物で、これに牛乳を薄めたものをしみこませてあげると非常に喜びます。たぶんちゃんと食べてくれるのがこれくらいで、かむ力も無いため固形のドッグフードは食べることが出来ず、やわらかい缶詰の肉もあまり食べません。最初は一日に一缶の半分食べていたのが、今では1/5以上あげると残します。水も飲みません。牛乳を薄めてやると、それは喜んでぺろぺろします。<br />獣医さんが言うには食い意地の張っている子は長生きするとのことです。もはや遊ぶ楽しみの無い寝たきりの生活において、楽しみは食べることと人と遊ぶことだけです。食べ物の匂いがすると口をもぐもぐさせるので、まだまだこいつは元気でしょう。<br />でも、たまに呼吸が弱く目が半開きでぐったりしていることがあり、そんなときは元気だったころのことを思い出しながら頭を優しく撫でてやります。<br /><br /><br />もう一つは、あまり大っぴらに書きたくは無いのですが、恋人が出来たことです。<br />自分の中で恋人を大事にする方法というのがいくつかあって、それによると適切に構ってやり記念日にはどこかに出かけてちょっとした小物をプレゼントしたり、毎日きっちり愛情の表現をしたり、ともかく寂しくさせないことと大事にされてると感じさせてやることが大事だと言うわけです。<br />毎日続けることはだんだんと心身に疲労を与えます。一日あたりの苦労が大きければ大きいほど限界は早く訪れます。別に良い人間を演じたいというのではないのですが、そうするのが礼儀だと私は考えているのです。主にこの問題に対処するために私は日記を、主に哲学的書き物を書く義務を自分に与えました。自分の行動のスタイル、思考の習慣を変えてしまうことで新しい生活を始めようというわけです。その新しい生活と言うのは、短い期間ではなく長い期間良い対応が出来るような生活のことです。この点に関しては不可解な点もあるかもしれません。今まで私はどこにも公開していませんがたくさんの書き物をして、以前公開したものと今の考え方には大きな隔たりがあるかもしれません。たくさんの書き物をしたといっても、頭が働いたとき5日に1ぺんくらいで、私の思考は今だいぶ鈍ってくもの巣が張っています。……詳しくは哲学的日記の方に書くことにしましょう。<br />恋人は私に非常によくしてくれます。私がしょっちゅうゲーセンで取ったぬいぐるみとか、記念日のちょっとした小物とかを贈るので、この間はお礼にと腕時計をくれましたし誕生日にはエアガンを貰いました。私の事をよく分かってくれるよい子です。私も私で、付き合って始めのころにアノマロカリスのぬいぐるみをプレゼントしました。恋人は女性にしては男性的性質を持っており、私もおそらくは細かな方針を立てたりと女性的性質を持っているのかもしれません。ヴァイニンガーがこれらのことについて何か述べていたことを思い出します。<br /><br />私の友人がこうしたプライベートな書き込みを読まないことを望みます。これは公開という一種の義務であり義務は人の狂気を抑えてくれるのですが、それ以外にある公開するにおいてのたくさんのデメリットが私に起こらなければ良いなぁと思います。 ]]>
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<dc:subject>日記</dc:subject>
<dc:date>2011-09-23T03:44:15+09:00</dc:date>
<dc:creator>ワーカホリック</dc:creator>
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<title>哲学日記の復活</title>
<description> 私に必要なことは、同じ事を何回も繰り返し書くことであった。というのも哲学の結果はそれが自らの思考の限界を表現せずに示しているという点においてわれわれの思考の枠組み・指標となりえるのであるが、それは文章に書き記した時点ではまさに完結した文章として完成しているのだがすぐに忘れ去られてしまい結局日常的に運用することが不可能になってしまう――われわれは哲学を再会するときに前書いたものを読んで自分が何を考えて
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<![CDATA[ 私に必要なことは、同じ事を何回も繰り返し書くことであった。というのも哲学の結果はそれが自らの思考の限界を表現せずに示しているという点においてわれわれの思考の枠組み・指標となりえるのであるが、それは文章に書き記した時点ではまさに完結した文章として完成しているのだがすぐに忘れ去られてしまい結局日常的に運用することが不可能になってしまう――われわれは哲学を再会するときに前書いたものを読んで自分が何を考えていたかを思い起こすことはすれど、常にその考え方を身に付けることはなかった。例えば人間は思考するときに、結局は説明を説明しているということしか示すことが出来ず、どのように考えてもそこに到達するようにしかならない、というわれわれの結果を考えてみよう。その考えはそこを思考の限界、出発点として物書きをはじめることを教えてくれる。しかし一度机を離れたならば私は運動をしたりホームページの面倒な更新をしたり学校に行ったり会話を技術的に遂行すしたりするときに、念頭に浮かぶことが最終的に説明の説明としか表現されないがゆえに現実論に基づいた理論や身体を動かす演劇論に速やかに移行するほかないということを忘れてしまうのだ。忘れてしまう、というよりも私にはそのような思考が身に付いていないため、すなわち習慣になっていないので、おしゃべりとか仕事とかでいつも最初に引き起こされるような思考が変わらすに発現してしまうのだ。そういった意味では私の哲学的物書きは必要なことなのだ。今日起こったことを自分の研究の成果によって分析する。すると今日考えたこと、いつもの習慣のまま起こってしまっ思考法が実は別の違ったやり方でも行えるのだと気が付く。そうすることで自分の、例えば説明論が絵を見たり、人の会話を理解しようと努めたり、サイトの更新に頭を悩ませたり、犬の世話に苦労したりするようなときにも哲学的結果を用いて洗練することが出来るのだ。哲学的結果はとりわけ思弁的なものであると諸君らは思うであろう。それは間違いの無いことであり、確かに日常的に人が口に出すような類のものではない。科学で実験によって見られたことを並べることが唯一の方法だと考えたり、人間と会話するときには「それはどういうことか」と考えたりすることなどは、実際には行わないことだ。それにもかかわらずこれらの研究が必要なのは、川の水源が日常の生活でそうそうお目にかかれるものではないけれども川の下流は街を歩けばどこかしらにあるのと同じである。そもそも諸君らも哲学を嫌うけれども、新しい活動を始めたり、進学についてあれこれ考えたり、教育の意義について考えたりするときに思うことは至極思弁的なことでは無いだろうか。人のよしあしを語るときにその根拠とするような人間の取るべき態度とか身なりの整え方などは物事から切り出された観念的で世の中のどこを見てもそれ単独で著関されることは無いような産物ではないだろうか。それゆえ私は誰もが習慣的に簡単な方向に流れてやってしまうような思考の方法を、思考の技術によって取替えようと考えている。水源がまったく変わってしまったならば、河口はその場所を変え流れる水の質は変わり川の形は新しく流れる場所に合わせた形態をとるのではなかろうか。<br /><br />私に必要なことはこうしたたとえ話であり、実際に用いることの出来る形に翻訳することではなかろうか。思考の結果を単純な形に表して、その用いるべき表現を運用することである。私はまず哲学の熟慮された結果を持たねばならない。それを欠いているとすれば、私は技術も無いのに思い込みだけで物語を作り下手糞なのに演劇で主役を演じているのと同じである。<br />しかし、完全に出来上がっているわけではないにせよ思考の活動が行われているのであれば私はまず結果の取り出しやすい表現を持ってきて、そしていつもそこから始められるような習慣を作り、そして運用し続けてもどこかで不具合が起きないような技術的習熟を得ることをするのでなければならない。<br />これらのことも私が上手に生活を行おうとするがゆえである。生活を上手く行う気が無いのであれば、こうした結果の運用など無価値である。しかしながら私の哲学の結果によれば現実論（現実という、可能性の中から相反せぬ一つのものを選び思考の活動をするという認識を基にした考察一般）においてはその変項としてどのようなものでも用いることが出来る部分があるのであり、その中に人間の願望が含まれることが可能であるがゆえに、われわれの理論の示す人間的感性の強固さの度合いによってわれわれは自らの気分を理論の運用原理として用いることが出来る。あるいはこれと似たやり方で現実論的に考察するに当たって、現実論が妥当である限りわれわれは物事の結論が未定であるとか、間違っているかもしれないと疑うべきだと言うことができる。つまり一つの固定した結果があるのにもかかわらずわれわれは他の事を不確定のわからぬこと、まだ自分の知らないことだと考えることが可能である。このことは考える上で重要な定理であり、当然であるとその辺に投げ捨てておくのではなくていつも大事にしてそばに置きしかるべき問題に対処するときに正確に用いるのでなければならない。<br /><br />私は思考の結果を運用する必要がある。その思考の結果とは、第一に私の現在の唯一の哲学である説明論であり、そして現実論によって得られた理論である。 ]]>
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<dc:subject>ほとんど哲学的な</dc:subject>
<dc:date>2011-09-23T02:38:47+09:00</dc:date>
<dc:creator>ワーカホリック</dc:creator>
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